LOGINキックオフの当日、紡はいつもより一時間も早く目を覚ました。
今日からblancのプロジェクトが正式に始まる。専任としてアサインされた以上、意気込みはもちろんある。
ただ、目覚めの早さの理由は、それだけではなかった。
数日前、社内システムにキックオフの参加者リストが更新された。トキワ文具側、セントラル・アド側、両社の名前が並んだ表を、紡はなにげなく開いた。
そこに、見慣れた名前があった。
セントラル・アド株式会社 営業三部二課 有馬朔也。
息が、詰まった。
「……うそだろ」
業務中だった。仕事の手が止まり、画面の文字を二度、三度と読み返した。それでも、書かれている苗字も名前も、変わらなかった。読み間違いではなかった。
まさか、仕事で再会するとは思っていなかった。
というか、有馬はセントラル・アドに勤めていたのか。
知ってさえいれば、コンペのリストを見たあの瞬間に気づけたはずだった。なのに、紡は知らなかった。連絡先を渡しておきながら、有馬がどこでなんの仕事をしているのかを訊けずにいたのだから、気づけないのも当然だった。
動揺と、戸惑いと、そのあいだに、ひとつだけ、はっきりした感情があった。
また会える。
有馬の名前の四文字を、紡は心のなかで、噛みしめるように転がした。
『ありがとう』で止まったままのメッセージ画面が、業務という形を借りて、もう一度動きだすかもしれない。期待してはいけないのに、期待が頭をもたげるのを、紡は止められなかった。
洗面所の鏡の前で、ネクタイを結んでは結び直した。
二度目で気に入った形になりかけたのに、つい三度目をやり直してしまった。
ふと、手が止まった。
――有馬は、どんなネクタイでくるんだろう。
あの夜の有馬は、酔っていて、首元はゆるかった。きちんと整ったスーツ姿の有馬を見るのは、考えてみれば、初めてだった。卒業式の制服姿の有馬から、いきなり社会人の有馬を見ることになる。そのあいだの十年が、今日の数十分で紡の前に並べ直される。
会議室のドアが開いて、有馬が入ってくる瞬間を、紡は何度も頭のなかでなぞった。なぞって、止めた。なぞるたびに、心臓のリズムが乱れていくのが自分でわかったから。
ネクタイの結び目を、最終的に一センチ上に整えて、紡は鏡から離れた。
いつもより三十分早く家を出た。足取りは、自分でも少し驚くほど、軽かった。電車の座席に腰を下ろしてから、紡は窓ガラスに映る自分の顔を、もう一度、確認した。表情だけは、いつも通りに整っていた。整っている、ということだけが、紡の唯一のよりどころだった。
場所は、トキワ文具の大会議室だ。
紡は相沢本部長の横の席に座って、セントラル・アドのチームを待っていた。膝の上で握った拳の内側に、じわりと汗がにじんでいる。机の上の資料は、昨夜のうちに何度も見直して、自分の持てる力はすべて注ぎ込んだつもりだった。
目を閉じて、深く息を吸う。
会議室の蛍光灯の白い光が、瞼の裏でぼんやりと揺れた。
「なんだ白瀬、緊張してるのか」
隣から、相沢本部長の明るい声が聞こえた。紡はゆっくり目を開ける。
「いえ、緊張は」
答えた声は、自分でも驚くほど、平坦だった。温度の抜けた声、と言ってもよかった。
「そうか? 顔に出てるぞ」
からかうような口調に、紡は曖昧に苦笑した。
緊張している。それは、間違いなかった。ただ、その緊張は、プロジェクトに対するものではなかった。十年ぶりに会いたかった人と、業務として並んで座る。その数十分に対する、紡だけが知っている緊張だった。
会議は十時開始。あと十分というところで、会議室のドアが開いた。
「失礼いたします」
声が、して、紡は反射的に顔を上げた。
セントラル・アドのチームが、続々と入ってくる。
その先頭に、有馬がいた。
紡の心臓が、どくん、と強く打った。
ネクタイを首元まできっちり締め、スーツを完璧に着こなしている。十年前の制服姿の余韻は、もう、どこにもなかった。当たり前だ、と紡は内心で打ち消す。二十七にもなって、社会人なのだから、スーツ姿が様になっているのは当然のことだ。
磨かれた革靴。アイロンの効いたシャツの襟。指先まで気を抜いていない身なり。口元には、相手を不快にさせない種類の笑みが、薄く乗っている。これはアメリカで身につけた所作なのか、それともセントラル・アドで磨かれたものなのか。紡には判別がつかなかった。判別する権利が、もう自分にはない、ということを、紡はここでも思い出していた。
個人的に話したい、と願う気持ちが、胸の底からゆっくりと頭をもたげた。それを、紡は無理やり押し戻した。
これは仕事だ。仕事として、対応する。それだけだ。
自分にそう叱咤した瞬間、有馬の視線が、紡のほうに向いた。
目が、合った。
有馬の口角が、ほんのわずかだけ、動いた気がした。気のせいかもしれなかった。本当にわずかな、誰も気づかないほどの動きだった。
偶然、ではないのかもしれない。
そう思ったのと同時に、いや、偶然なわけがないだろうと、紡のなかのもうひとりの自分が苦笑した。プロジェクトメンバーになっているのだから、偶然のはずがない。当たり前のことが、紡にはまだ、整理しきれていなかった。
会議の前に、両社の名刺交換が始まった。
「トキワ文具の白瀬と申します。よろしくお願いいたします」
ひとりずつ、名刺を差しだしていく。声は、いつもの営業のリズムで出ていた。それが救いだった。
目の前に、有馬が立った。
「セントラル・アドの有馬と申します。白瀬さん、よろしくお願いします」
名刺を差しだす指。十年前は知らなかった、社会人の手つきだった。紡もまた、慌てて自分の名刺を差しだした。
「トキワ文具の白瀬です。よろしくお願いいたします」
有馬の名刺を受け取るとき、指先がほんの一瞬、触れた。
紡の肩が、内側で小さく跳ねた。なのに、有馬の表情は変わらなかった。完璧な営業スマイルのまま、次の人に向き直っていく。
その姿が、紡の胸を、内側からそっと削った。
なんともなかったように振る舞える、ということは、有馬にとって、紡はその程度の相手なのかもしれなかった。
いや、と紡は、すぐに自分のなかで否定した。あちらは仕事の場で、感情を表にだすような立場ではない。ここで動揺してみせるほうが、よほど場に不適切だ。当然のことだ。当然のことだ。それでも、紡の指先には、たった一瞬の接触の熱がまだ残っていた。受け取った名刺の角を握り直す指が、わずかに、震えている気がした。
会議が始まった。
紡は相沢本部長の隣で、有馬の声を聞いていた。
有馬が立ち上がり、口を開く。
「あらためて、本日はパートナーに弊社をお選びいただき、ありがとうございました。まずは弊社のチームメンバーをご紹介させていただきます」
プランナー、アートディレクター、コピーライターが順に立ち上がり、頭を下げていく。そのたびにトキワ文具側から、軽い拍手が起こった。
メンバーの全員が、有馬を信頼していることが、紡にも伝わってきた。視線の置き方、頷きのタイミング、相槌の入り方、そのすべてに、有馬を立てる呼吸があった。きっと、社内での評価も高い。
戦略の再確認とスケジュールの共有が続いた。三月下旬のローンチまで、半年も残っていない。紡は無意識に唾を飲み込んだ。
業務として向き合えば向き合うほど、有馬の有能さが見えてきて、紡は、そのたびに、何度も自分のなかで線を引き直した。これは仕事だ。これは仕事だ。
会議が終わると、部屋のあちこちで立ち話が始まった。これから半年一緒に走るチームだ。雑談もまた、仕事の一部だった。
紡が机の資料をまとめていると、目の前に人が立った。顔を上げると、有馬がいた。
「有馬……さん」
「白瀬さん、少しよろしいですか」
仕事相手の声だった。落ち着いていて、礼儀正しく、まさに業務の温度だった。
「はい、なんでしょう」
紡も同じ温度で返した。返せていることに、自分で安堵した。
「今後の進行についてですが、週に一度、進捗確認の定例を組むかたちで問題ないでしょうか」
「ええ、それでお願いできれば」
「対面は月に一度程度、それ以外はオンラインを想定しています」
「そのほうが効率的だと思います」
「ありがとうございます。それでは、今後ともよろしくお願いいたします」
最後の一言だけ、声色がほんの一段だけ、ゆるんだ気がした。気のせいかもしれない。気のせいだ、と思おうとした。思おうとしながら、紡の胸の奥は、もう、内側でわずかに揺れていた。
隣にいられる。
でも、また、自分の気持ちを押し込めなければいけない。
ふたつの感情が、同じ強さで、紡の喉のあたりにのぼってきていた。
雑談がひととおり済んで、セントラル・アドのメンバーがエレベーターホールへ向かいはじめた。
紡は資料をまとめ、自席へ戻ろうと立ち上がった。エレベーター方面とは反対の出口へ向かおうとした、その途中で、有馬の背中とすれ違うかたちになった。
紡は黙礼で、脇を通り過ぎようとした。
すれ違いざま、紡の耳元に、低く、短い声が落ちた。
「また、よろしくな」
高校のころと、まったく同じ声だった。
完璧な敬語の仮面の、内側にしまわれていたはずの声。紡にしか聞こえないであろう音量で、その声は十年分の隔たりをほんの一瞬だけ、なかったことにした。
ずるい。
なんで、そんなこと、いま言うんだ。
文句のひとつでも言ってやりたかった。けれど、紡は振り返らなかった。
振り返ったら、なにかが崩れる気がした。崩れたら、戻せない気がした。
紡はそのまま大股で、自分のオフィスへ向かって歩いた。蛍光灯の白い光だけが、廊下に落ちて、紡の足元を冷たく照らしていた。
自席に戻り、机の上に資料を置いた指先が、ほんの少し、震えていた。
パソコンのモニターを立ち上げる。普段の業務に戻ろうとして、手元のキーボードに目を落とした。打ち込もうとした文字を、紡は何度か、入力途中で消した。集中できていない。集中できていないこと自体が、今日の自分への、いちばん正直な答えだった。
また、よろしくな。
その声が、まだ、紡の耳の奥で残響を残していた。
六月の下旬になると、毎日しとしと雨が降り続くようになった。鬱陶しい雨も、好きな人と一緒なら気にならない。 先日、紡の母から電話がかかってきた。例の定期連絡だ。「元気にしているのか」と、毎回同じことを心配してくれる。大人なんだから、そんなに心配しなくてもいいのに。 そう思いながら、ふと、もう何年も実家に帰っていないことに気づいた。電話の声を聞くたび、少しだけ胸がちくりとする。「お母さん、なんて?」 朔也が、隣からのぞき込んでくる。「いや、別に。いつもの定期連絡。元気にしてるのか、って」「そっか。実家には帰ってないの?」「ここ数年、帰ってないかな……」「じゃあ、帰れば?」「え?」「お母さん、さみしいんじゃないの?」 確かに、そうかもしれない。電話のたびに、同じことばかり聞かれる。元気なの? 仕事は順調? 顔を直接見れば、親ならすぐにわかることばかりだ。それでも電話で確かめるしかないのは、紡が帰らないからだ。「そ……っか」 だからといって、わざわざ帰りたいとも思えなかった。実家には、まだ言えていないことが多すぎる。「なあ。俺と一緒に、地元に行こうよ」「は?」「久しぶりに、高校とか見てみたくねえ?」 朔也との思い出の地を、ふたりで巡ろうということだろうか。実家には数年帰っていないし、高校なんて卒業以来だ。「そう……だな」「そのついでに、実家に寄ればいいじゃん」「あ……」 「ついで」と言ったけれど、本当は、紡が実家に帰りやすいように気を遣ってくれたのだ。なんでもないふりをして、いちばん大事なところをそっと後押ししてくれる。朔也は、いつもそうだ。「じゃあ、朔也も俺の家に来てよ」「俺?」「……うん。大事な人を、紹介したい。でも――」 紡は、思
六月も中旬になり、鬱陶しい天気が続くようになった。部屋の中は湿気が高くジメジメしている。けれど好きな人といればそんなことすら、気にならないから不思議だ。 もうすっかり朔也の部屋に入り浸ってしまい、この部屋が元から紡の部屋だったのではないかと思えるほどだった。朔也が使っていいと言ってくれたチェストの一番下の引き出しは、紡の服でパンパンになっていた。申し訳ないと思いながらも、チェストの上にも服を積んでいた。収納用のボックスを買おうかとも思ったが、紡は居候の身だ。そんなことはできるはずもなかった。 クローゼットの前でぼんやりしていると、後ろから朔也が声をかけてきた。「紡のもの、増えたな」「……うん。ごめん。つい、甘えていっぱい持ってちゃって」「いいんじゃねえか?」「なにが?」 朔也は一瞬目を泳がせたが、紡を見つめた。耳の端がほんのりと赤くなっている。「……もう、一緒に住んじまったら? そのほうが早くねえか?」 そっけなくそう言うが、朔也の目は真剣だった。 冗談で言っているわけではない。そんなことぐらい、鈍感な紡でもわかった。 紡は息をのんだ。朔也からそんな提案を受けるとは思っていなかったからだ。 この部屋に入り浸るようになってから、ずっとここにいられればいいなと思っていた。けれど、朔也には朔也の生活がある。ひとりになりたいときもあるはずだと思っていた。だから、紡からは「ここにずっといたい」とは言えなかった。 目の奥がじんと熱くなる。 ずっと言いたくて言えなかった言葉を、朔也のほうから差し出してくれた。それがどうしようもなく、うれしかった。「うん、早い! 朔也とずっと一緒にいたい!」 思わず朔也の首に飛びつくと、やさしく受け止めてくれた。「……そうか」 朔也は体の力が抜けたようだった。そのひと言を伝えるだけで、緊張していたのだろうか。 そういえば、もうすぐ契約の更新だった。「俺、この部屋にずっといていいの?」「俺が紡にいてほしいんだよ」
六月になった。梅雨入り前の、からりと乾いた空気が頬をなでていく。 紡と付き合いはじめて、もう四か月目になる。 片想いの時間がお互い長すぎて、最初はうまく心のうちを出せなかった。それでも、一度ぶつかってからは少しずつほどけてきた気がする。 いまでは紡が部屋に来る日のほうが多く、ほとんど半同棲のような暮らしだ。自分の部屋に紡がいる。それだけのことが、いまだに夢みたいに思える。隣で紡が目を覚ますたびに、これは現実かとこっそり確かめてしまう。 ずっと、欲しがることすら自分には許されない気がしていた。それがいま、当たり前みたいに隣にいる。 六月の最初の土曜日。 紡とデートをして、食事をした帰りだった。どちらからともなく足が向いたのは、あの駅だった。紡と再会した、あの駅。 改札をくぐり、ホームの奥のベンチへ向かう。八か月前、朔也が酔いつぶれて眠っていた、あのベンチだ。同じ場所に、同じ形のままぽつんと残っている。ふたりで並んで腰を下ろした。 八か月前のあの夜、ここで酔いつぶれていた自分を紡が見つけた。あのときは、まさかこんな日がくるなんて思いもしなかった。 夜のホームは、人もまばらだった。生ぬるい風が、線路の匂いを運んでくる。 ――言うなら、いまだ。 朔也は、ずっと言いそびれていたことを話す決心をした。 嘘はつかない。隠したいことがあれば、ふたりで決める。先日、そう約束したばかりだった。なら、胸の奥にしまったままのこれもちゃんと渡しておきたい。 大きく息を吸って、腹に力を込める。「あのさ……」「ん?」 紡が、あどけない表情で朔也を見た。一点の曇りもない目が、まっすぐに朔也を映している。その澄んだ目を見ていると、よけいに言い出しづらくなる。「あの夜さ……。『有馬だよね』って言われた瞬間。実は意識が戻ってたんだ」「うん。それは聞いたよ。覚えてないふりした、って」「あ…&hellip
日曜の夕方、紡はひさしぶりに自宅マンションへ帰ってきた。 いまは朔也の家にいるほうが多く、この部屋に戻るのは週に一度あるかないかだ。長く暮らしてきたはずなのに、こもった空気が、ここをよその家みたいに感じさせる。 窓から差す夕日が、見慣れた家具をオレンジに染めている。ものはどれも元の場所にあるのに、どこか冷たく見えた。郵便受けにたまった広告。流しに伏せたままのマグカップ。生活の止まった部屋の匂いがする。 ここには、紡の荷物がある。けれど、紡の暮らしはもうこの部屋にはない。 ――きっと、あっちでの暮らしのほうが、もう心地いいんだろうな。 そんなことを考えていると、スマホが震えた。画面を見ると、実家からだった。「もしもし」『紡?』 母だった。実家からは月に何度か、こうして電話がかかってくる。もう二十七なんだから心配いらないと言っても、やめてくれない。「母さん、元気?」『私は元気よー。紡は?』 朗らかな声に、少しだけ肩の力が抜けた。なんだかんだ言って、家族からの電話は特別なのかもしれない。「うん。元気」『仕事は忙しいの?』「あー、うん。新しいプロジェクト任されて、ちょっとね」『そう。体に気をつけなさいよ』「ありがと」 電話の向こうで、母は近所のことや父の愚痴をひとしきり話した。その声を聞いていると、子どものころの台所の匂いまでよみがえる気がした。 他愛もない近況を話していると、ふと母がこぼした。『紡、最近、声が明るいわね』「え?」 心臓が、どくんと跳ねた。 声が明るいのは、たぶん朔也のおかげだ。いや、たぶんじゃない。間違いなく、朔也のせいだ。一緒に過ごすようになってから、毎日が自分でも驚くくらいやわらかくなった。 でも、母はなにも知らない。紡がゲイだということも、朔也のことも。 母は、紡を二十七年見てきた人だ。声の調子ひとつでなにかを感じ取っても、不思議じゃない。それが、うれしいような、こ
まだまだ自分の気持ちを全部朔也に言えないときもある。けれど、言葉を飲み込む回数はずいぶん減ったように感じる。それは朔也も同じようだった。いつもなら笑ってごまかすところを、きちんと言葉にしてくれる。そうやってお互い、ちょっとずつ前に進んでいる気がした。 苦手なことをするのは、誰だって嫌だろう。それでも朔也のためなら一生懸命になれる自分を見ると、よっぽど好きなんだなと思ってしまう。 朔也の家に着替えを置くようになってから、平日も朔也の部屋で過ごす時間が増えた。増えたというより、ほとんど住んでいるようなものだ。もう、自分の部屋はいらないんじゃないか。そんなふうに思うくらいだった。「はい、お待たせ」「うわっ。うまそ」 朔也は、紡が並べた夕飯を、目を細めて見た。「朔也、全然ご飯作ってくれないじゃん」「ははは。いや、紡の飯がうまいからさ……」 そう言うと、朔也は大皿から麻婆豆腐をすくって小鉢に入れた。スプーンを口に運び、顔をほころばせる。「うまーっ! これ、レトルトじゃないんだろ?」「意外と簡単だよ。調味料さえあればパパッとできるし。今度教えようか?」「いや、いい。紡が作って」「俺、家政婦じゃないんだけど!」 ぷうっと頬を膨らませると、朔也が吹き出した。「相変わらず紡はかわいいなぁ。ちゃんと後で体で払ってやるよ」「えっち! そんなことで済ませられると思うなよ!」「はははは」 くだらないやりとりをして、ふたりで笑う。なんでもない夜だ。けれど、こういう夜こそが紡にはいちばんかけがえのないものだった。 そのとき、紡のスマホが震えた。「誰だろう?」「見たら?」「……うん」 画面を確認すると、高城からのメッセージだった。タップして開く。『白瀬ー! 今度、有馬と三人で飲もうぜ! 同窓会の後、お前らの様子がおかしかったから、気になってさ!』 なんだ、こ
眠ったはずなのに、体がすっきりしない。まるで鉛が、体の真ん中に居座っているようだった。その重みが、紡の心まで侵食していく。 ベッドに大の字になって、ぼんやりと天井を見上げる。 本当なら、いまごろは朔也の部屋でくだらないことを言い合っているはずだった。それなのに――。 この二週間、死ぬほど忙しかった。週末に朔也に会えなくて、さびしかった。連絡できなかったのは、仕事のせいだけじゃない。心配をかけたくなかったのだ。「ああっ! もうっ!」 紡は頭をかきむしった。 わかっている。心配をかけたくないからと、なにも言わずにいるのは、いまの紡たちにはもう必要のないことだ。黙っていた自分が悪い。 それなのに、本当のことを言い当てられてカチンときた。だから、言い返してしまった。 昨日のドアの閉まる音が、まだ耳の奥にこびりついている。あの音を、自分で鳴らしたのだ。 紡はサイドテーブルに手を伸ばし、スマホの画面をつけた。時刻は、もうすぐ正午だ。着信もメッセージも、なにもない。 もちろん、紡からは電話もしていないし、メッセージも送っていない。ただひと言、「ごめん」と送れば済む話だった。けれど、それでは今までとなにも変わらない。謝って、閉じる。それで丸くおさまったことにして、結局なにも話さないままになる。 ふと、水瀬の言葉がよみがえった。「ちゃんと喧嘩しろよ」 あのときは、どうして水瀬がそんなことを言うのかわからなかった。十年も想い続けた相手なのだから、できることなら喧嘩なんてしたくない。誰だってそう思うだろう。 スマホをサイドテーブルに戻し、頭の後ろで手を組む。 仲直りとは、なんだろう。 怒りがおさまってから会うことだろうか。いや、それを待っていたら、また十年が過ぎてしまう。それだけは、嫌だ。せっかく再会して、恋人同士にまでなれたのに。このまま、なんとなく終わっていくなんて絶対に嫌だった。 紡は、ベッドから飛び起きた。 シャワーを浴びると、頭の芯が少しだけ冷えた。それでも、胸の奥の怒りはまだくすぶって
あれから、黒木はあまり馴れ馴れしくしてこなくなった。他人から見ればわからない程度の、ほんのわずかな変化だ。けれど紡にはわかった。ほんの少しだけ、距離が遠くなった。きっと黒木は、紡に好きな相手がいることを察したうえで、自分なりに線を引いたのだろう。そんなにすぐ気持ちが整理できるはずもないのに、すごいな、と紡は素直に感心した。 だから紡のほうも、黒木にはこれまで通り接した。今さら急によそよそしくなる必要もない。それで十分だったらしく、まわりの同僚たちには、ふたりのあいだにあった出来事は、たぶん誰にも気づかれていない。 有馬じゃない相手なら、こんなにも普通に振
キックオフを終えて、次の週からプロジェクトは本格始動した。 週に一度、プロジェクトメンバーが揃って進捗状況の確認を行う会議があった。本当は定例会議だけで事足りるにもかかわらず、有馬が「近くまで来ましたので」と紡を訪ねてくる日が増えていった。気づけば週に一度の定例会議とは名ばかりで、有馬とはほぼ毎日のように顔を合わせている。「あの……有馬さん」「なんでしょう」「そんなに頻繁に来ていただかなくても……」 別に有馬を拒んでいるわけではない。むしろ本心を言えば
月曜の朝、朔也はアラームが鳴る前に目を覚ました。 月曜は普段、寝起きが悪い。社会人になって以来、目覚ましより先に起きるのは初めてかもしれない。 緊張しているのか。自分の胸に問いかけてみる。 たぶん、そうだ。今回は初めて、自分から手を挙げた案件だった。 あくびをひとつして、ベッドを出た。 キッチンへ向かい、冷蔵庫を開ける。ミネラルウォーターのキャップをひねると、カチッと小気味のいい音がした。口をつけて、半分以上を一気に流しこむ。よほど喉が渇いていたらしい。一度口を離して息を吐き、残りも一気にあおった。
マンションのドアを開けると、見慣れた部屋が目に入った。 壁のスイッチを押して灯りをつける。寝室に向かい、鞄をデスクに置く。ジャケットを脱ぎ、ネクタイをゆるめながら洗面所へ行く。手を洗って、うがいをする。 毎日、変わらない動作だった。同じ順番で、同じ時間に、同じ手順を繰り返している。十年前にはこんな生活を想像もしていなかったし、十年後も、たぶん、同じことを続けているのだろう、と紡は思う。 会社へ行って、残業して、帰って、寝る。それだけが繰り返される、波のない日々。 そこに今月、ふたつの大きなことがあった。仕事で大型のプロジェ







